昭和五十四年六月五日 朝の御理解
御理解 第七節
「天地金乃神は昔からある神ぞ途中から出来た神でなし天地は 流行ることなし流行ることなければ終わりもなし天地日月の 心になること肝要なり信心はせぬでもおかげはやってある」
先ずは、「信心はせぬでもおかげはやってある」と、いうおかげに気付かせて頂くことがお道の信心の根本です。「信心はせぬでもおかげはやってある。」と。
そこから段々、先日から頂きますように、この神様のおかげを頂かなければ、言うなら、天地金乃神様のおかげを受けなければ、ね、外に手はない、と、いう程しのものが段々わかってくるところから、それこそ、「こんなに有難いおかげをうけてもよかろうか、こんなに心の状態が有難い勿体ない。」と、自分の心の中に、その、かって感じた事のない、有難い勿体ないが与えられる。こういう生活を私共も願い、また、神様も願って下さってあるのです。だから、何と言うても、「信心はせぬでもね、それこそ世界中の氏子におかげはやってある。」と、いうおかげをギリギリわからせて頂くことなんですね。それが根本です、それが限りなく深くなっていく、と、いうことです。そこにはね、それこそ撫でさすりされるようでろうか、と、特別のご恩恵を感じ、ご恩恵に浴していくことができる。
勿論、人間の幸せの条件のすべてが足ろうてくるわけです。ね。
そういうおかげを頂けれることのためにです、ね、その過程を只、「この神様のおかげを頂かなければ立ち行かん。」と、いうことがわかる。言うなら、「自分でする心には、おかげはなし。させて頂くという心におかげがある。」と、いうその内容をいよいよ深めていくことのために、いよいよもって、天地日月の心を心としての、私共の生活がなされていかにゃいけん、ね。それをここでは、ま、『人間は土より出でて土に還っていくのだその道中とてもやはり土の心をもって生活させて頂く』と、いう。言うなら、「信心をいよいよ極めていかなきゃならん。」と、いうことになるのです、ね。
もう、本当にそうなんです。ね、だから、そこを極めていく以外はないのです。
昨日、神愛会でございましたから、あちこちの先生方、遠方から見えておられました中に、山口の長田先生が見えられましたが、今度、ご本部から頂いてみえられましたご本の、私共の中近畿での、二日間ですかね、その三日目の講演会のは入っておりませんけれども、二日間の私共のお話が御本になって出ておる。その中に長田先生の話が出てくるわけなんです、ね。
長田先生が、「合楽の大祓信行の事を、合楽で頂いたけれども実感がわかなかった、わからなかった。したら、その朝のお夢に、御神飯器に御神飯が盛ってない御神飯器にかじりついておるところ頂かれて、もう、がく然とされたんですね。まあ、こういう教会が多いのではなかろうか。と、それ以来、毎日昼と朝ですか、十巻づつの大祓信行を始めておる。」先生のお話を、その話の中にしてあるわけですね。青年教師に対する講演の時、その話をしとるです、確か。
ところが、その長田あきえ、と、いう先生の名前をそのまま出しとるものですから、そのまま本に書いてあるもんですから、あっちこっちから攻激があった、と、こう言うのです。けれども、その、「あんた合楽に参りよるのか、どういうわけ、なんのために合楽に参らなきゃならないのか。と、いう先生と、それは参ってもいいぢゃないか。と、ね。信心を求めてならいいぢゃないか。と、いう両用があった。」と、いう話をしておられました。
昨日は、熊本の水前寺教会の先生も見えておられました。二度か三度か見えますね。大祭もお参りになっておられた。「もう、それこそ椛目時代から先生の話は聞いておったし、そういう所があるなら行ってみたいな、お話聞いてみたいな、と、思うておるけれども周囲の雰囲気がどうも、その出て来れれる雰囲気がなかった。」。
たまたま富永先生がここに通われる事を聞いていましたから、丁度その御本の中にも・・出てこんかな。あれは講演会の時にね、三日目の講演会の時に富永先生の話が載ってから出てくるわけですけれども。
合楽に通うておられることを知っておられて、段々と教会の上にもおかげを受けておられるのを知っておられるので、先生にお願いして、「一遍つれて参って下さい。」と、言うのがそもそもの始まりであった。
それで今度、宮崎に大変大きな合楽の共励場、と言うか、出来たそうですね、と。そして今度、次は熊本にも出来るそうですね、という話をなさいました。
そりゃ成程、宮崎から沢山参って見えますし、各支部また延岡とか高鍋あたりには新築される、と、もうそれこそ、神様を中心に堂々とした共励場を作りますから、それが教会から作ったようなふうに、曲がって伝えられておるのぢゃないだろうか。それがまた、熊本にも出来るそうな、と、いう評判だそうです。私はその時に、「あヽそうですか。」と。それでもう、「とにかく合楽がくるとガバーッと、信者を取るそですね。」。まあ言うなら、「戦々競々のようなものが熊本に今ある。」と、こう言うのです。そういう話は、前も聞いた事がありましたけれども、ま、言うならば、根も葉もないこと。合楽の場合は此頃の月次祭の時にもお話しておるように、佐賀支部の誕生の事をね、話しておりますように、もう本当に、例えば、支部が生まれるためには催しに催されて、そこから支部が生まれる。だから、生まれると同時にそこには自ずと神様がお育て下さる働きが生まれてくるんだ、と、いう話をしてましたですね。月次祭の時に、だから自然に生みなされていくわけなんです。
それで、私はその事を笑いながら聞かせて頂きよったら、神様から頂くことが、『竜神丸』と、頂いたんです。竜神丸ち言うのは、海賊船のことです。もうまるっきり、合楽を海賊のごと思うとるです、皆が、ね。
それこそ血も涙もなか。ガバーッと信者ば取っていってしまう、さ
っていく。さあしっかり用心せないかんぞ、と、言うわけですから、本当に用心し、用心よりも精進して、それこそ、合楽がいくら
進出して来てもです、それこそ、お客さんを取られることのないような信心を、めいめいの教会で本気でなさる。それで、私の方は、取るわけぢゃないけれどもね、その、例えば、なら、末永先生とか富永先生の場合なんかは、教会挙げて合楽に傾倒しておられる。そげんところでは、一つもとられはせん。だから、ね、ある鹿児島の青年教師の方が見えた時にそんな話がでた。
「だから、も、とにかく、御信者も同道で合楽に通うておいでなさい。」と、私が言うたんです。したら、「そげなことしよるなら、信者は取られてしまう。」と、言われたです。だから、「うん、あんたがそげな気持ちなら連れてこんがよかばい、取られるばい。」ち、私が言いました。
だから、取られる、と、言うのぢゃなくて、教会を挙げて合楽の信心を頂こう、という気になりゃ取られもなあもせん。信者も信心が進み、そして、言うなら今日の合楽教の中にです、言うなら、ね、今までかってなかったごひ礼を教団の上に頂くことが出来るだろう。
教師も信者も一緒になっておかげを、言うならば、合楽理念に基づいての生き方をすることによって、教師自体も助かり信者もどんどん助かっていく、ね。それを、けちけちした心で、ね、おるから、取られるような結果にもなるかも知れんけれども、私が、二日のお話の中でも、お話しているように、私はね、「とにかく、ま、教団全体ではない、本当に宗教全体を、混ぜくり役を私は承りたい。」と、いったような意味の事を話してます、ね。「その混ぜくり返して、そして、お抹茶の味のように、ね。その事によって、言うならば宗教全体が、また、勿論、金光教の信心全体が生々として、本当の事になってくるおかげ、が、頂かれればそれでよい。」と、私は思うとる。ね。
そういうような話が、まるっきり合楽を海賊のごと思うとる、ね。
だから、んなら、そういうような傾向がないぢゃない。けれども、おかげを頂いてもらいたいの一念が、そういうことになっているのである。ね。
悪心邪心からではない。本当の金光教がね、もう、金光教の中にはこういう素晴らしい信心があるんだ、という事を合楽では様々な角度から説いておる。次に、その先生が言っておられたが、「合楽では、その先生が、教祖様より自分が上だ、と、いったような事を言いよんなさる。」と、いう事が話題にでました。ね。
に、佐賀支部の誕生の事をね、話しておりますように、もう本当に、例えば、支部が生まれるためには催しに催されて、そこから支部が生まれる。だから、生まれると同時にそこには自ずと神様がお育て下さる働きが生まれてくるんだ、と、いう話をしてましたですね。月次祭の時に、だから自然に生みなされていくわけなんです。
それで、私はその事を笑いながら聞かせて頂きよったら、神様から頂くことが、『竜神丸』と、頂いたんです。竜神丸ち言うのは、海賊船のことです。もうまるっきり、合楽を海賊のごと思うとるです、皆が、ね。
それこそ血も涙もなか。ガバーッと信者ば取っていってしまう、さ
っていく。さあしっかり用心せないかんぞ、と、言うわけですから、本当に用心し、用心よりも精進して、それこそ、合楽がいくら
進出して来てもです、それこそ、お客さんを取られることのないような信心を、めいめいの教会で本気でなさる。それで、私の方は、取るわけぢゃないけれどもね、その、例えば、なら、末永先生とか富永先生の場合なんかは、教会挙げて合楽に傾倒しておられる。そげんところでは、一つもとられはせん。だから、ね、ある鹿児島の青年教師の方が見えた時にそんな話がでた。
「だから、も、とにかく、御信者も同道で合楽に通うておいでなさい。」と、私が言うたんです。したら、「そげなことしよるなら、信者は取られてしまう。」と、言われたです。だから、「うん、あんたがそげな気持ちなら連れてこんがよかばい、取られるばい。」ち、私が言いました。
だから、取られる、と、言うのぢゃなくて、教会を挙げて合楽の信心を頂こう、という気になりゃ取られもなあもせん。信者も信心が進み、そして、言うなら今日の合楽教の中にです、言うなら、ね、今までかってなかったごひ礼を教団の上に頂くことが出来るだろう。
教師も信者も一緒になっておかげを、言うならば、合楽理念に基づいての生き方をすることによって、教師自体も助かり信者もどんどん助かっていく、ね。それを、けちけちした心で、ね、おるから、取られるような結果にもなるかも知れんけれども、私が、二日のお話の中でも、お話しているように、私はね、「とにかく、ま、教団全体ではない、本当に宗教全体を、混ぜくり役を私は承りたい。」と、いったような意味の事を話してます、ね。「その混ぜくり返して、そして、お抹茶の味のように、ね。その事によって、言うならば宗教全体が、また、勿論、金光教の信心全体が生々として、本当の事になってくるおかげ、が、頂かれればそれでよい。」と、私は思うとる。ね。
そういうような話が、まるっきり合楽を海賊のごと思うとる、ね。
だから、んなら、そういうような傾向がないぢゃない。けれども、おかげを頂いてもらいたいの一念が、そういうことになっているのである。ね。
悪心邪心からではない。本当の金光教がね、もう、金光教の中にはこういう素晴らしい信心があるんだ、という事を合楽では様々な角度から説いておる。次に、その先生が言っておられたが、「合楽では、その先生が、教祖様より自分が上だ、と、いったような事を言いよんなさる。」と、いう事が話題にでました。ね。
だから、私は申しました事でしたけれども、「とにかく、教祖金光大神 教祖様、いわゆる金光大神様と言われる方は、もう、あとにも先にもです、それこそ前代未聞、開闢以来、もう、この方のような方が後にも先にも出られる、と、思われない程しの素晴らしいお方なんだ。」と。それほど天地の親神様から、ご信任を篤く受けられた、それこそ釈迦にもキリストにも教えなかった事を、金光大神には伝えておられる。そういう素晴らしい、いわば、教祖様のみ教えがあまりにも深くて、広くてわからない。それを合楽が承ってその深さ広さを説き明かそうとしておる。とにかく、私の、ま、神ながらな事だと、思いますけれども、あのお話したテープだけでもここの廊下いっぱいに高く積み上げてある。どこにか、帰りがけ見て行って下さい。向こうの大襖の向うへ、一番上の方まで積み上げるごと、キチッと、今度、整理整頓が出来てね。もう悪くならないように、ねまったりくさったりせんように、そういう加工をして積み上げてある。ね。これが全部、言うならば教典になるんだ。私が三十年間お話してきた話がね、活字になりテープになって残される。
まあ、これだけのテープをお供えする者がある、と同時にです、まあ、よう、これだけをためてあったもんだ、と、いうこと。その中の一つを出して聞かせて頂いても、もう、その場でそれがおかげになるような働きがおこっておる。
此頃、佐賀支部の共励会の時に、たまたま整理しながら、ちょっと聞かせて頂いたのが、佐賀というご理解だった。だから、そのご理解を今日はこうであった、と、言うてお話をしたと言ってます。
あれが出来上がってしまった時に、私は知らなかったけども、杉山三男さんが参って来ておる、ね。あのテープは杉山さんがお参りしては、こんどもテープだけお供えするんです。そりゃ金額にするなら、どれだけあるかわからんです。それを一遍もとくことなしにね。
入れたらそのまま、ためておかれたのが、あれだけ沢山なことになっておる。あれが、なら、教典ということになるならば、キリスト教のバイブルにも、お釈迦様の何万卷と言われる経典にも匹敵すると、言うより、むしろもっと多いことになる、素晴らしいことになってくるんだ。と。
昨日も、末永先生に話したことぢゃたけども、まあさしあたりね、「末永先生は南米の地にあの教典をもっていく。所謂、遜悟空に出てくる三蔵法師と同じたい。」と、言うて話したことです。ね。
「三蔵法師がインドから支那の国にそれこそ大変な危険を犯しながら運んできた。」と、言うのが遜悟空の物語りです、ね。
「それが、生粋が合楽理念である。その合楽理念の芯はどこにあるか、と言うと、天地日月に心になること肝要だ。」と、いう天地日月の心が、もう、それこそ、あらゆる角度から説かれてある。そして金光教が、ただ自分よがりに、こんなに素晴らしいんだ素晴らしいんだと、と、言うておるわけではなくて。
昨日、私は先生方にもその事を最後に言ったことでしたけれどもね、今の教学研究所に、今、淵上君が行って、先日お礼に出て参りました時に、ね、その所長が言われたという話を、ここで印刷して皆に配ってげた。その中にです、「金光教が最良最高のものである、と、いうことを確信しなければできない。」と、いう事が書いてあるんです。
「金光教が最高のものだ、最良のものだ、と、これにまさる宗教はないんだ、と、いう事を金光教人自体が自覚しなければいけない」と、言うておるけれども、果たして金光教をそれ程に高めた頂き方をしておる人が、果たしてあるだろうか、と。そりゃ、とてもキリスト教には勝たん、仏教には勝たん、と、いっておるのぢゃないかと、ね。
「だから、どこが、そういう素晴らしいのか、と、言う事をです、ね、どこが最高なのか最良なのか、と、金光教の信心がかくも素晴らしいのだ。」と、いう事を合楽では、ね、十全の教えとして説いているわけです、ね。
右と左のこの一本一本の手、十全の手、それをキリスト教は五全しかついとらん、仏教は七全しか説いとらん、と、いう感じ、そして、あとの三全、あとの五全というのは、助かりようがないようになっているのが仏教だキリスト教だ、と、いうふに説いているわけ、ね。
和道十全、和の道を説かない宗教はない。けれども、それを十全なものにしていない、十全なものとして受け止めておられたのが、教祖金光大神だ。それを、ご理解に説いてあるけれども、あまりに至難なためにわかっていない、ね。それを合楽ではです、ね、それこそ三十年がかりで、まだ、これからも説くことであろう、ね。
昨日、一昨日も同じご理解したでしょうが。まあ、それこそ、どれだけ説いても、一つのご理解み教えの中にはきりがないんです、説きだしたら、と、いう程に深いんです、広いのです、ね。
「だから、先生方、どうでも合楽にご縁を頂かれたならばです、とにかく和道十全と言われるのが、どこが和道十全か、と、いうことを皆さんの頭脳で、皆さんの日頃使っている言葉で、私が使う言葉ぢゃなくて、皆さんの頭脳で皆さんの使われる言葉で、合楽はそこのところを、言うなら縦横無尽に説いてあるところをです、ね、こういう所が、確かに和道十全だ、と、いう事をまとめておいて下さい。」と、言うて、昨日は先生方に話したことでした。
皆さんとてもそうです。和道十全、和道十全と、言うけど、どこが和道十全か、と、皆さんが知らんなら何もならんぢゃないですか。
最良のものだ、最高のものだ、と、言うても、ここが最高なんだ、最良なんだ、と、いうところが、特に、なら、今日のご理解の第七節なんかはね、その、言うなら、教えの最高峰を行くみ教えでしょうね。そういう、言うならば、み教えを皆さん、日々頂き受けておられるわけですから、ね。また皆さんとてもです、そんならば、もう合楽の信心が最良だ、最高だ、と。
「金光大神の教えを、これほどに深く広く説きあかせる所は、ないんだ。」と、信じられなければ、合楽通の値打ちはないです。だから、なら、通うて来ただけが値打ちぢゃない、それを本当に、自分の身に受ける、そして実験する。そしてそれを実証していく、という。成程、和道十全の道だなあ、と、いうことをです、ね、現わして行く、と、いう皆さんは、だから、使命感のようなものがね、できなきゃだめですよ、ね。
信心させて頂いたら、こうもちがうものか、と、昨日の御理解ぢゃないけども、それこそ、親のある子とない子というのは、こんなにもちがうんだよ、と。
私は昨日、午前中のお届けの中にそういう、もう、まの辺りに見、まの辺りに聞かせて頂いた、いくつかの同じようなことを、聞かせて頂いたんですけども。
昨日、高芝さん達夫婦がお届けされますのに、田主丸の時分、言うならば、高芝さん達の修行時代です。それを大変、それこそ親身も及ばんように懇意にお付きあいして下さる方があった、ね。そして、「高芝さんて、あんた達にね、信心を止めろとは言わんけれども、あんたどんが椛目椛目と言うて、それこそお金もないとにお参りして、月に、あんたいくらいるの、と、ね。しかも、それだけの時間もいろうがの、それだけを一生懸命働いた方が本当ぢゃないの、これは、私は、あんた達の事を思うてから言いよるとばい。」と、言うて、それこそ親身に言うて下さる方があったんです、ね。皆さんでも、そういう体験がありますでしょう、ね。
「けれども、○○さん、私達夫婦は椛目通いを止める、と、いうわけにはいかん。」と、言うて、「もうそれこそ、親身に世話をして下さる事は有難いけれども、信心を退めろ、とは言わんから、少しばっかり、ま、月のうち何回か、ち、いうごたるふうで参ったらお金もかからんし、時間も費やさんでよかぢゃんの。」と。
成程、その時、もし第三者が聞いておったら、この人が言いなさるとがほんなこつ、と、いう感じでしょうが。そして、数十年経った今日の事をです。もう七十いくつ、の、おじいさんとおばあさんが、毎朝こうやって、それこそ水々しいまでの生々とした心で朝参りが続けられておる。
「先日からその方が病気しておられる。そして、そこに養女にしておられた娘さんまで、一緒に寝込んでおられる。」と、いう話を聞いて、昨日、あちらへお見舞いに行かれたんです。 もう、それこそ手を取って泣かれた。ね。「本当、何十年前、あげなこつ言いよったが、本当にあれは私のまちがいぢゃった。」と、「どうかありゃ薬ばい、どうかありゃ医者ばい、そげん神様てんなんてん、ち、いうこつがいるの。」と、いうような生き方を。言うておられたけれども、それこそ高芝さんの奥さんという人は、もうノーシンの中毒しとるような人だったです。当時、椛目に見えよった間は、頭痛持ちぢゃたわけ。それがノーシンとも言わなきゃ、ね、胃散とも言わんようにならせて頂いてです、そして、なら、いま、七十いくつになって、所謂、夫婦が毎朝、朝の御祈念に参って見えられる。そして、自分の周辺には勿論、そういう生々としたおかげの世界というものが、広がっていきよる、ね。もう、話を聞かせて頂いたら、その薬毒でね、足が立たんごつなっとんなさる、薬毒げなばい。そして、身体は、体は毛布にこう巻かっちゃるげな。そして、ここが神経痛で痛むげなから、ずーっとここに扇風機をかけとかなんげな。もう、その様を見て来て、そのお届けを聞かせてもろうてですたい、本当に、昨日のご理解ぢゃないけれども、信心のある者と、ない者がこのようなふうにちがってくるんだな、と、いうことをですよ、私は感じました。
昨日、綾部さんがお導きをして見えました、もう八十二になられる基山亭のご主人とおばあさんが、もう五つちがいだそですから、七十いくつ。まあ、御普請をされる時にお伺いに来て、とにかく、迷いに迷うておられたけれども、「ここで早くしたがよい、一時も早くしたがよい。」と、言うので建てたのが今の基山亭です。
「だからもう、それから、ちょっとおくれとったら、もうそれこそ大変な金額の差が出来た。」と、言われる。ま、おかげを頂いた方なんですけれども、何か特別なお伺い事がある、参って見える、と、いう程度でございましたが、もう何年ぶりかに見えられて、向こうから年寄りが二人で、よろよろしながら来なさるもん。そげん年寄っちゃるです。そして二人とも足が座られんで、こう投げ出しちゃるです。それでいて、まあだ基山亭の自分が社長さんである、と。
もう今、夜も晩も睡られんごたる大問題がおこった、と言うて、昨日は見えました。で、私がね、そげな大問題ではないですよ、と。
神様の目からご覧になれば何でもないことだ、と、言うて話を聞かせて頂いたら、まあ、その老夫婦のためには大問題だろう、と 思うけども、私が聞いて、私がお話させて頂いて、そういう気にパッとなったら、もう今でも楽になれる、ね。けれども、それが夜でも睡られん位、心配になる、と、いうその問題をです、かかえながら仕舞えていかなならんと、いうようなことでは、もうあの世が案じられる。「極楽というのはね、この世で有難い勿体ないの心を開いとかなければ、極楽行きは出きんばの。」と、私。私が言う通りに。
今日は、そのことを、昨日、伝えさせて頂いて、ま、綾部さんがその中に入ってその問題を、今日でしょうか、解決されるかわからんけれども、されるようになっとりますけども、それと言い、これと言い、もう誠に、とにかく、ね、金がこの世での最高のものだと、ね、もう金さえあれば、と、いう人達のね。
そりゃ成程、高芝さんに言われるように合楽、当時の椛目に毎日参れば、あんたいくらいくら、おさい銭もいろがの、と。それが、積もり積もってごらん、それこそ大変な金になるでしょうけれども、その位の事ではない。言うならば、とにかく一生過ごしてみなければわからん、と、いうような悲しいことではいけんぢゃないか、と、ね。もう年とって、それこそ両足お棺の中に突っこんだごとなってからぢゃもうおそか。そういう大変な事をです、皆さんが日々、所謂、「天地日月の心になること肝要」と、いう信心を身につけていっておられなければならんのです。ただ参るだけぢゃでけん、ね。
そういう、ある者と、ない者の開き、と、いうものがはっきり出てくるおかげを頂かなければね。例えば、このご理解七節が、どんなに素晴らしい、ね、これだけでも、言うならば金光教の信心の秀ぐれておることがわかる程しのご理解を頂いておっても、ね、言うならば、何もならないような事では出来んということです。ね。
信心は、年を取るほどに有難うなっていかなければならんけれども、有難うなっていくという人が、今の金光教の中にない、ね。そして、教会なら教会でもです、何かクラブのような雰囲気にして、人が集まりさえすればよい、と、いうのぢゃなくて、金光教のご信心はどうでも人が助かることさえできれば、と、いうのでなからにゃいかん、ということ。
合楽はそうです。だから皆さん自身が助からなければでけんのです。
ね。
いよいよです、天地日月の心をいよいよ、ね、自分の信心の血肉にして、そして、昨日、先生方に話したように、ね、金光教が最高のものだ、最良のものだ、と、ね、という事がです、ね、自分の体験の上にも頂き、教えの上にも、こういうところが、こんなにも、すぐれておるんだ、と、いう事をです、人にもお話しが出来なければ、本当の示現活動に参画する、と、いうことにもなりません。
先ずは、「信心はせぬでもおかげはやってある。」と、言われるおかげの自覚、そのおかげの自覚から、しかもそれを広う深く、勿論頂いていかなければならんけれども、「そこから、いよいよ土の信心であり、ね、天地日月の心を心とする信心」と、いうことになるのです。
そして、心の上にも、ね、この有難いのが、この勿体ないのが、ほんに本当なものぢゃあるだろうか、と、思う位な有難さが与えられる信心です、金光教の信心は。
そして、その有難さにです、も、人間の幸福の条件がです、足ろうてくるという、おかげの世界に住まわれる信心なんです。ね。
だから、それを頂くためには、「本気に、やはりその教えに取り組み、本気で稽古する。」と、いう気にならなければだめです。
「 どうぞ 」